西龍寺の縁起

西龍寺は永平寺と総持寺を両本山とする曹洞宗寺院である。 室町時代一五七〇年~七三(元亀年中)、道後湯築城河野氏ゆかりの禅寺として開山される。 御開基は西龍寺殿玉岸秀芳大居士、御開山は梅叟壽芳大和尚である。 悠久の時を経て、持田の歴史と文化を香煙に包みながら今日に至る。

竹之宮延命地蔵の縁起

この由来記に於壬生の地蔵菩薩と一所からの御孝霊天皇の末葉(裔)河野氏の一族竹の宮官主と謂う御人あり ある時御城丑寅の刻一筋の光楽々天より届き奇異なるお告げをなし御城に訪るなり その御姿地蔵菩薩石像は壬生寺より伝わり永きに渡り一宇の堂を営いて則ち安置されしものなり 愛比売主の家室妊娠の心地ありて地蔵菩薩に安産を祈りし治い玉のような男子出産に至る さらに乳が出にくい折々にもこの石像に祈誓を致せば忽ちの内に乳が出始め一子の生育を助けたり ある時は歯の痛みありその石像に於いては天福により忽ち平癒する 天外心を抱かる時は何も成され言う事もなし すなわち御影成就の時は厚く家内に於いて香花を燈明越しに供え楊枝を立て学外を祀り今に於いても幾度も唐楊枝なるものに天仏由来を奉り元禄年中当国の大守君の御代御局殿の黒髪が白く雪のようになり気も心も患いし時その告げの通り竹の宮の地蔵前で祈りを行った その時霊験あらたかに願いの叶うよう則ち竹の宮地蔵菩薩に祈り黒髪に戻り古代よりその髪の究めとなる気も大いに利する 大守君より伝わりし日々の弥栄に毎月御の恭の仰あり 古風な人の知る不思議な霊験あらたなる仏像を奉り御名を唱え現当代二世の御利益とし御影成就疑う事なし

本尊竹之宮地蔵菩薩縁記より

子規句碑の縁起

「鶏頭の丈を揃へたる土塀哉」

一八九五(明治二十八年)正岡子規が柳原極堂と散策した際に西龍寺の土塀前にて詠まれた俳句である。

当時周辺は田園風景が広がっていたとされ、この句では土塀と鶏頭の赤い花のコントラストが際立っている。

俳句が詠まれて123年となる平成三十年九月二十日に西龍寺が境内に建立した。松山子規会協力のもと除幕式が行われ、子規の孫にあたる正岡明氏にもご参列いただいた。 伊予の青石で設えた句碑には子規直筆の句が刻まれ、毎秋境内には赤い鶏頭が咲き誇っている。

鼠小僧供養塔の縁起

鼠小僧は寛政九年(一七九七年)生まれの実在の盗賊であり天保三年(一八三二年)に浅草で処刑された。

こちらにあるのは供養塔で東京両国の回向院に墓がある。

石手川の土手で発見され持田村の寺院である西龍寺に運ばれてきたと曰う。

明治末期松山市内の新栄座で上演された歌舞伎の河竹新七作「鼠小紋東君新形」が大入りで歌舞伎一座か新栄座が供養のために建立した。

(松山子規事典より)

供養塔には「教覚速善居士」 俗名 中村治良吉と記されている。

昔は金運祈願のために墓石を削り御守りとして持つ風習が盛んで、削られたことによる破断跡が残っている。

供養等の手前の「御前立ち」を削り、御守りに入れてお持ち帰りください。 御守りは玄関にて販売しております。